私はどこからが「私」か。
この顔か、身体か、それとも中身か。

若かりしころを思い返すと、私は私の「外側」の部分を、とても軽んじていたと思う。見苦しくさえなければよかった。特に大事にしてはいなかった。飾るのが面倒だったし、お金をかけたくもなかった。
それよりも「中身がない」ということを極端に恐れた。それは「勉強ができるかどうか」ということではなく(正直、それほどできたわけではない)、「自分の言葉を持っているかどうか」だった。

自分の言葉。

……自分の、言葉?

いや、それって結局、なんだったのだろう。なんだと思っていたのだろう、私は。いくら本を読み、考えているつもりで誰かと議論しても、そのほとんどは借り物だったのに。

それから数十年がたって、よいこともわるいことも、年齢分の経験は積み重なった(だろう、たぶん)。やりたくないことはしないから、それほど幅は広がってはいないけれど、「自分の言葉」を発するための裏づけはできたのかもしれない。「緻密になった」とまではとても言えないが。
高校生から年配まで、いろんな属性、仕事、考え方を持つ人を取材してきた。その経験の中で、「自分がこう見せたい」という自分を「つくる」ことは悪いことではないのだと思うようになった。取り繕うのが正解と言いたいのではない。単に自分の「中身」を整えるだけでは、たいていの人にはなにも伝わらないということだ。
特に仕事の場でのふるまいはパフォーマンスやロールプレイングの要素もあるから、そのために「つくる」ことは、自然とまではいわないけれど、ある程度、「自分を守り育てる」ために必要なのだと思う。
こどものころの私はたぶん、それが「純粋じゃない」「偽りの自分だ」と感じていて、それがいやだったのだろうな。

この3年、化粧を練習した。まだできないこともあるけれど(アイラインを描くとか、影を入れるとか)、商品を眺め手にとり、練習した。価格が高いものにはやはりそれだけの価値があり、それでも、安いものにも意外なよさがある(こともある)。これだけを仕事にする人がいるほど、奥深いものだということはわかった。

この2年は、筋力トレーニングもした。週に1回でも、続けていればだんだんと重いものが動かせるようになる。動かし方がわかると動くようになる。そもそもしたことがない動きばかりだった。足を広げる、内ももに力を入れる、背中を動かす、肘から下で持ち上げる、肩を後ろに寄せる……。「そこは、そっちには動きませんよ?」と思っていたところも、少しずつ動くようになった、気がする。そうしたら、猫背は治ってきたし、あおむけで寝られるようになった。重力にぺしゃんとおしつぶされず、立ち、歩き続ける力がついた、かもしれない。

化粧は、自分の「中身」が納得する「顔」をつくる作業。
筋力トレーニングは、自分の「存在」をくっきりさせる作業。

そう思えば、考えたり話したりすることと、ちゃんと地続きのような気もする。