私が育ったのは、女が多い家だった。畑仕事と近所でのおしゃべりを楽しみとする祖母、小学校教員の母、その長女である私と、3つ下の妹。男は、寡黙な祖父と帰宅の遅い父だけ。
母方の従兄弟の家も似たようなもので、だから寄り集まっても話すのは女ばかりだった。親戚のこと近所のこと仕事場のこと、子供たちの学校のこと。何時間でも話していられた。
祖父は言葉の足りない人だった。表情の乏しい人だった。端的に言えば、昔の人だ。私の授業参観に母のかわりにやってきたときも、くすりともしなかった。子供たちの寸劇を、終始、真顔で見ていた。祖父も教員だったはずなのだが、私が物心ついたころにはただのおじいさんだった。
田舎の学校の校長として勤め上げ、退職してからは家の田畑と山林の世話をしていた。作業着のズボンと長袖のシャツを着て、長靴を履き、腰にはナタや蚊取り線香、細かな道具をぶらさげるベルトをしていた。ほとんど髪のない頭にキャップを被って、ゴーグルをつけていた。山の手入れにいったら、コーヒーの空き缶にミヤマクワガタを入れて持って帰ってきてくれた。
町の歯医者に連れて行ってくれて、治療の後でコーラを飲ませてくれた。年に一度の大きな祭りに、時代行列を見に連れて行ってくれた。忘れ物をしたらバイクで持ってきてくれた。大学の卒論提出日にバスに乗り遅れたときも、市街地までバイクで送ってくれた。
私は、大学を出てすぐに、東京に来た。正月とゴールデンウイークとお盆、年に3回帰省して、ベッドに寝ていることが多くなった祖父のもとにも、顔を出した。
丈夫な人だったが草刈り機で足を怪我して後は、入院を繰り返した。透析もしていた。
祖父がもともと寡黙だったせいで、私はずっと気がつかなかった。私のことを、祖父が何も聞かないということに。
悪い人ではなかった。何を考えていたのかまったくわからなかったけれど祖父を嫌いではなかった。私たちは祖父が作った米を食べ、作った野菜を食べていた。でもよい人だったとは言えない。
祖父は、昭和20年にその父を亡くした。グアム島で戦死したのだ。祖父は自分の母と祖母、弟ふたり、妹ひとりを育てる側になった。25歳くらいだったのだろうか。結婚したのはいつだったのだろう。あまりよく知らない。
もちろん見合いだった。祖父の行動原理のすべては、家を守ることにあった。家族ではなく、「家」を。だから、ゆるせなかったのだろう。理解もできなかったのだろう。
家よりも「自分」を優先する、私のことを。
祖父は何ひとつ聞かなかった。私の仕事のことも、生活のことも。思い出してみれば、私の顔もあまり見なかった。
そもそも、私のことを、まだ覚えていたのだろうか。既に、いらないものとして記憶から排除されていたのだろうか。
私は、こどものころからかわいがってもらったと思っていたけれど、それは祖父が私を、跡取り娘だと思っていたからだ。本当に、ただそれだけ。孫だからかわいかったわけではない。
家のためにならない私を、祖父はいなかったものにした。そしてその恨みを、私の母に向けた。
祖母が先に亡くなり、祖父の食事は母が用意するようになった。食事を部屋に運ぶ母に、食べ終わったからといって礼を言うこともない。毎食後、空になった食器の上には短冊が置かれていた。「おまえの育て方が悪かった」「嫁としての価値がない」「おまえのせいで跡取りがいなくなった」「家を潰すつもりか」。
母が、弱い人ではないのは幸いだった。負けず嫌いだし、自分の状況を客観視できるクールな人だ。祖父の呪いの短冊を集め、まとめて保存していた。
「言いたい気持ちはわからんではない」と、祖父の所業を振り返るとき、母はいつもそう言った。「だからといって、あなたの思い通りにはなりませんよ、とも思うけれどね」。
祖父は母を責めたが、名指しているのは私のことだった。
今でも帰省するたび、仏壇に菓子を備えて「帰りました」と手を合わせる私に、遺影の祖父はなんの言葉も注がない。困ったときに助けてくれるとも思えない。