すべてが“ひとつながりの大きな不安”になるという思考の癖

季節は秋になっていた 夏が過ぎ、まさに秋の長雨であった9月も終わり、いつの間にか10月になっていた。 今日の東京は晴天。千葉県内ではまだ先日の台風による豪雨被害のあとが残っている。浸水、土砂崩れ、停電など、まだまだ復旧できないところも多いみたい。 関西に住む母からは「大丈夫か」と何度も連絡があった。いつもは文書の添削依頼でしか連絡してこない妹からも、珍しく「お姉ちゃんち、停電は?」とメッセージが来た。そのたびに、うちは大丈夫な場所だよと返信した。我が家は、東京寄りの某市の中でも、とくに被害が少ない場所にあるのだった。 実家のあたりでは大きな災害にあった記憶がない。高校1年生のとき、大雨で市街地に行く県道が土砂崩れでふさがったくらい。父とともに隣府を経由して頑張って登校したら、「ものすごい山奥から通学している!」とクラスで一番の田舎者にされた。でもほんとうは、別の道路の土砂崩れでその日登校しなかった男子の方が、私の家よりもっと田舎に住んでいたのだけれど。 それと阪神淡路大震災。ベッドの真上に設置したエアコンが落ちてきたら潰されると思って、壁にぎゅうぎゅう体を寄せて、揺れがおさまるのを待った。このときばかりは、当時はまだ仲が悪かった妹のことが心配で(まだふとんに入ったまま)、隣の部屋に向かって大声で大丈夫か聞いたことを覚えている。 今年の夏は、短かった。そして、暑すぎはしなかった。合間に少し、灼熱がやわらぐときもあり、全体的な疲弊度は2025年ほどではなかったかもしれない。 個人的には8月はあちこちに行ったり来たりでとても疲れてしまった。夏休みもあったけれど、取材で出かける日が続き、話は聞いたが原稿は1行も書いていないという仕事が溜まって、脳も気持ちも休まらなかった。 社員男子も同様に出入りが続き、一度も顔を合わさない週もあった。 スケジュールがうまくいかず、そういうふうになってしまう年もある。 そして鬱々とした9月になった。どんよりした空の下、手は進まず、頭も重い。原稿を何本も書いた。短いものから長いものまで、調べるものからまとめるものまで、学校の話に土木工事の話、商取引と法律の話まで、いろいろ。 これまでの経験上、「できる」ことはわかっている。でも、「すぐに」「うまく」できるというわけではないのだ。(本当の)締切には、結局ちゃんといつも間に合うんだけど。 9月初頭に13本あった「書かねばならない原稿」の、最後のひとつは数日前に終わった。やれやれ。 疲れた頭の中で、経営と生活の不安が結びついてしまう そして9月末日も、東京は雨だった。10月1日に変わった真夜中も、雨の音がしていた。 なんと、35日も雨が続いたんだってさ。1876年以降の観測史上、連続降水記録は最長の記録だとのこと。 土木の取材で何回か訪れたから関東各地のダムの貯水量はときどき気になる。昨年夏も今年の春先も渇水情報が出ていたので、国土交通省のライブカメラで貯水の具合を見たりする。 関西の実家も、雨続きで稲刈りが遅れて困っていると言っていた。降雨も日照りもほどほどにしてほしい。 科学が発達しても、天気と病気はコントロールしきれないんだな。……いや、どこかで何か人為的にコントロールすると、別のところに悪影響が出てしまうのを避けられない、のかも。 結局、人間が「してよいこと」には、限りがあると思う。傲慢は災のもと。 それにしても、意識を天気に左右される人とそうでない人の差は、大きいと思う。 私は根本がネガティブにできているので、すぐに、最悪の事態を考える。月末というのもいけない。会社の支払いを考えると頭が痛く、足りないものにばかり意識がいってしまう。前社長から「どんな月もあるが1年均せばトントンだ」と言われたけれど、編集制作という仕事は着実に、“長き斜陽”から壊滅に向かっている。 経営のこと、自分の年齢、できる仕事、それから住む家。すべての気がかりがつながって、“とてつもない不安”になってしまう。 お金がないわけじゃない。住む家がないわけじゃない。関西には相続した家がある。今のところは会社も続いている。 ……それでも。 今の家は賃貸だし古いし、ここにいつまで住めるんだろう? ユニットバスとか水道の配管とかだいぶ古くなってるけど、住んでる間に交換してもらえるのかな? 引っ越すにしても、どこに? これより歳をとったら借りられないんじゃないか? そもそも会社をたたむことになったら身分がなくなって信用がなくなるから、借りられないかも。 じゃあ今のうちに買う? いやいや、新築の値段は高すぎる。中古で買えるところはだいぶ古そうだけど大丈夫か? 買っちゃったら、いやなことがあってもすぐには移れないし。長期間のローンはいやなんだけど、一括で払うことってできるのかな。 でも、家を買ったとしたら2軒分の固定資産税を払うことになるし、やっぱり賃貸がいいかもしれない。そしたら、まだまだ大丈夫そうなマンションを借りたい。ちょっと家賃が上がってもいいか? だめか。いや、そもそも借りられるのかなあ。 ……という堂々巡りが、年に何回かやってくる。 すべてを“大きな塊”にしてしまうのは、よくない癖だ。不確実なことがらを、一本の因果関係でつなげてしまう。不安がすべてを先回りしている。 楽観視しないという点である意味で冷静だろと思って生きてきたけれど、確実に考えすぎではある。 若かりしころ、上司に「まだなにも悪いことは起きてないでしょ」と言われたことがある。でも、上の世代の人が言う「なんとかなる」を、私はまったく信じることができずにここまで来たのだ。それらが実際に「なんとかなってきた」こととは関係なく。 前回は大丈夫だった。 でも今回は前回とは違うかもしれない。 だから今回は今回で、ちゃんと考えておかなければ。 ただ、考えてみれば、 過去の「なんとかなった」 → 証拠として採用しない。 未来についての「ひょっとしたらダメかもしれない」 → 証拠がなくても採用する。 というのはちょっと矛盾する態度のなかもしれない。 私はいったい「なんとかなる」のなにがそんなに気に入らないんだろう。 なんとか「する」のは私だろ そう考えてみると、私が他人から「なんとかなるって」「そのときはそのときだよ」と言われていやだと思ったのは、その言い方に「考えなくても大丈夫」というニュアンスがあったからではないか。 私が「不安に思っている」「対処を考えている」ことを否定されたのだ。それだけでなく、その人は「自分がそれをする」と思っていないようにも見えた。 その「なんとか」を、誰がやると思ってる? 私がいるからそう言えるのでは? 仕事をして、お金も貯めてて、不安について考える私がいるから、あなたはそう言えるんでしょ? そう思っていた。ほとんど憤りといってもいいくらいの強さで、むかついていた(とはいえ、私がすべてを背負ってきたわけではないのだから、ちょっと不当な怒りだったかもしれない)。 今は、できることだけしよう。 自分が「あとで困るはずだ」と思うから心配するのだ。 「なんとかなる」人はそうしたらいい。でも、私は「なんとかする」ほうの人なのだから。

October 1, 2026 · akio